【ジュン】

　教師になって１年目。僕は世間知らずのやる気だけはある青年教師だった。
　僕はいきなり６年生の担任となった。
　そのクラスにジュンという子がいた。
　小柄で、いつも笑っているジュンは、勉強はまったくできなかった。親父と２人暮らしのジュンは、忘れ物もよくしたし、宿題なんてやってきたことがなかった。おまけに、朝飯なんて食べてきたこともなかった。
　僕は、そんなジュンを放課後残してよく勉強を教えていた。たまには家に行くこともあったが、７時を過ぎても親父が帰ってくることはなかった。たまに、晩飯をつくってやったこともあったけれど、ジュンの生活は変わることはなかった。
　ジュンの親父に初めて会ったときも、親父は酒を飲んで帰ってきたところだった。
　「先生、いつもジュンがお世話になってます。まあ、一杯いきますか」と、あいさつもそこそこ酒を酌み交わすことになった。
　ジュンの親父に会うときはいつも、親父は酒に酔っていた。ジュンに勉強を教えていようが、夕ご飯をつくっていようが、まずは酒が出てくるのである。
　そんな親父から、ジュンの小さい頃のことを聞くことがあった。ジュンが生まれてすぐに母親は家を出たとのことで、その当時タクシーの運転手をしていた親父は、乳飲み子を助手席に乗せ、お乳を飲ませたり、おむつをかえたりしながらタクシーを運転したという。
　ある日、学校の視力検査で、ジュンの視力がものすごく悪いことがわかる。どうしても、メガネをかけなければならないということだった。学校からは視力手帳というものが渡され、保護者に見せることになっている。しかし、ジュンはいつまでたってもそれを親父に見せなかった。見せるのを忘れたのか、それとも見せられなかったのかはわからないが…。
　また、いつものようにジュンの家で、酔って帰ってくる親父を待って、メガネの話をした。金がないらしくなかなかいい返事は返ってこなかったが、それから１週間もしないうちにジュンはメガネをかけて学校へ来た。
　しかし、ジュンは３日もたたないうちにこのメガネを壊してしまう。親父に叱られるのがこわいジュンといっしょにまたジュンの家で親父の帰りを待った。案の定、酒に酔って帰ってきた親父はジュンを叱ったが、それから何日もしない間にジュンは新しいメガネをかけて学校に来た。親父はきっと金を工面してジュンに新しいメガネを買ってやったのだと思うと胸が痛くなった。　
　そんなある日、ジュンの親父が倒れる。酒の飲み過ぎがたたり、肝臓にきたのだった。医者には、すぐに入院しなければならないと言い渡されているのに、その夜会った親父からは、まだ酒の臭いがしていた。
　ジュンの親父はその後も通院しながら仕事を続けた。しかし、以前のようには無理はできずに仕事も休みがちで収入も減っている様子だった。そこで様子をうかがいに出かけていった。
　さすがにその夜は酒は出てこなかった。やはり無理をせずに入院して健康になった方がいいのではないかという問いかけに、ジュンの親父からこんな話が出された。
「わしが入院したら、誰がジュンの面倒をみるんや。どうせ、その間は施設に入れるしかないやろ。そうなったらこいつがかわいそうや。わしの病気が悪くなって、わしが倒れるようなことになったら、こいつを殺して、わしも死ぬ」
　結局、僕は何も言うことができずにその夜は家に帰るしかなかった。
　それからジュンが学校を休むことが多くなった。おそらく親父も家にいることが多くなり、それで、朝も遅くまで２人で寝ていたのだろう。しかし、ジュンの家には電話がない。ジュンの親父に「こいつを殺してわしも死ぬ」と言われてから、僕はジュンが休むたびに、学校の帰りにジュンのアパートの電気がついているかを確かめに行くことになった。ジュンの部屋の電気がついていると本当に『生きているんや』って思ったものだ。
　そのうち、ジュンの親父の収入が底をついたらしく、学校の集金が遅れるようになった。
　学校にはいろいろな事情で、収入が安定しない家庭には、給食費などを免除できる制度がある。そのことをジュンの親父に伝えに行こうと考えた。
　ある程度予想はついていたことだが、ジュンの親父から返ってきた返事は「こいつはわしが働いて食わせる。人の世話にはならん」と言うことだった。
　しかし、６年生というのは卒業をひかえ、修学旅行や卒業アルバム・お別れ遠足などなど、たいがい出費がかさむものである。そこで何度かジュンの親父を説得に行くことになった。
　３回目だったろうか、４回目だったろうか、ジュンの親父はついに「先生がそこまで言うんやったら、お世話になることにするわ」と納得してくれたのだった。
　僕はジュンに出会って、本当にいろんなことを教えてもらった。世の中にはいろいろな家族がいて、そして、みんな幸せになりたいと願っていること。学校では見せない子どもの顔とさみしさと悲しさ。いつもは酒ばかり飲んでいる親父ものわが子を想う本物のやさしい心。
　そして、ジュンが卒業する日がやってくる。僕にとっても教師になってはじめて出会った子どもたちが旅立っていく日。ジュンは、いつものちょっと恥ずかしそうな笑顔とメガネのむこうのやさしい目、そして卒業式らしく、ちょっとよそ行きの格好をして、親父と２人で校門を後にした。
　その後、ジュンが中学校を卒業し、自動車関係の訓練学校に進んだところまでは知っていたのだけれど、それからのジュン親子のことはわからないままであった。